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永野章一郎伯父のこと
先日、母の兄、つまり私にとっての伯父が88歳で亡くなりました。
通夜、告別式は遺言によって身内だけで行い、数日後、浅草観光連盟の主催で本葬儀が執り行われました。
平日の昼間にもかかわらず、500人近い弔問客が来てくださり、あらためて伯父の遺したものの大きさに驚きました。
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菩提寺である田原町の本法寺は、若い住職が誠心誠意、葬儀をつとめてくださり、浅草神社・禰宜の矢野氏には心のこもった弔辞をちょうだいしました。
信仰深かった伯父は、浅草神社にも本法寺にもずいぶん心を寄せて若い後継者たちを応援していたようです。
お二人が涙をこらえて伯父との思い出を話されるのを聴き、本当に人格者だったのだなぁと思いました。

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私の両親は隣同士で結婚したので、私はどちらの親戚もすぐ近くにいる環境で育ちました。
母方の祖父は代々、浅草で漆器屋を営んでおりました。第二次大戦後、国産の漆が手に入らなくなって商売を続ける気持ちがなくなり、まだ大学生だった長男に家督を譲ったそうです。伯父は、戦後焼け野原になった東京で何をしようか考えていたときに、銀座の街で輸入雑貨を扱う店を見て「これからは洋装だ!」と思い立ち、「紅ばら」という紳士用品店を始めました。
何の伝手もない商売だったので取引先の開拓から何から、ひとつひとつ試行錯誤だったとか。ファッションブランド「JUN」創業者の佐々木氏が、風呂敷に商品を包んで小売店をまわり、とびこみ営業していた頃に出会い、東京ではJUNを扱う第一号店となったとのこと。
若く向上心に燃えた伯父は、VANの創業者である石津謙介氏に是非にも会いたいと神戸の自宅を訪ねたそうです。誰からの紹介もなく突然訪ねたにも関わらず、石津氏は快く会ってくれて、若きビジネスマンである伯父に取引先を紹介したり、商売のアドバイスをしてくださったと聞きました。
おりしも60年代のアイビールックのブームと相まって商売は軌道に乗り、当時は映画館通りと呼ばれた六区興行街にも出店。その頃は1階が店で、2階、3階に伯父家族と祖父母が暮らしていたので、子どもの頃はしょっちゅう遊びに行きました。
時代の先駆け的な商売を成功させ、父母と4人の弟妹の生活の面倒をみていた伯父は、街の仕事の数々も任されることとなります。
高度成長期から70~80年代の浅草はちょうど時代の転換期を迎えており、東京の中心が西側へ移っていった頃でした。
古くからの興行地だった街の様相が変わるなか、三社祭や金龍の舞など歴史ある行事、浅草サンバカーニバルや新春歌舞伎など新しいイベントなどにも力を注ぎました。
浅草神社の総代、浅草観光連盟会長など浅草のために多くの要職を務め、また台東区教育委員や蔵前幼稚園理事長など教育関係にも貢献することとなります。

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一方で家族をとても大切にする人でした。私の母とは10歳離れていましたが、母は伯父のことをとても尊敬していました。母方の親戚は仲が良く、祖父母が元気だった頃は毎年お正月に親戚で集まる新年会を開いたり、夏休みには何家族かでいっしょに旅行したりしたものです。
身内と街の仕事とはまったく切り離していましたので、本葬儀でお会いした何人もの方たちに「親戚だったなんて知らなかった!」と言われました。
私が辻屋本店を引き継ぎ、店舗の移転などで悩んでいたときにも相談に乗ってくれて、その後、新店舗をオープンしてからは、総代の仕事で浅草神社へ行った帰り道、必ず様子を見に来てくれました。
昨年までは変わらずに、背筋をピッと伸ばしスーツをパリッと着こなしたお洒落な伯父さんに会っていたので、いまだに亡くなったことが信じられない気持ちです。
昨年3月、私の友人がある研究のために浅草の人々にインタビューしたいということで、伯父に協力してもらい、戦前戦後の浅草について話を聴きました。その録音が残っているので、近いうちにテープ起こしして、文章にまとめたいと思っています。

by TomitaRie | 2018-06-09 16:45 | 浅草


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